アリスは何が言いたかったのか
コルトレーン晩年の演奏は、徹底的にフリーでアブストラクトで、とにかく聴き通すのにはそれなりの覚悟と体調の良さが必要だ。フリー・ジャズとして聴くのに「お勧めのアルバム」と「お勧めでないアルバム」が混在しており、ジャズ者初心者の時代には、その選り分けに苦労する。
ここに、John Coltrane『Cosmic Music』(写真左)がある。アルバムのリーダー表記はよく「John Coltrane(ジョン・コルトレーン)」単体で紹介されることが多いが、このアルバムは正確に言うと、John ColtraneとAlice Coltraneの双頭リーダーのアルバムになる。
もっと正確に言うと、このアルバムは、コルトレーンの死後に発表された作品で、「Manifestation」「Reverend King」の2曲がコルトレーン生前のセッションの記録で1966年2月の録音。「Lord, Help Me To Be」「The Sun」の2曲は、コルトレーンの逝去後、妻アリス・コルトレーンによって書かれて収録されたもの
ちなみにパーソネルは、John Coltrane (ts, b-cl,1966 recordings), Pharoah Sanders (ts, piccolo), Alice Coltrane (p), Jimmy Garrison (b), Rashied Ali (ds), Ray Appleton (per,1966 recordings), Ben Riley (per, 1968 recordings)。パーカッションは変わるだけで、基本的にはパーソネルは変わらない。コルトレーンの生前、逝去後の違いで、コルトレーンが存在するか、しないかの差はある。
実はその「差」が大きい。コルトレーンの存在している1966年の録音では、明らかにコルトレーンのフリーでアブストラクトな演奏で、その内容的には、僕が感じるのは「可も無く不可も無く」である。晩年のコルトレーンのフリーな演奏は、ちょっとマンネリしていたのでは、と僕は思っていて、その「どこかで聴いたことがある」フリーなフレーズが満載である。
しかし、1968年の演奏は明らかに1966年の演奏とは違う。ファラオの暴力的で激し過ぎるサックスとアリス・コルトレーンのピアノが、かなり「浮いて」いる印象で、コルトレーンの生前のフリーでアブストラクトな演奏と比較すると、激しい割に平板で、激情的ではあるが意外に「響かない」演奏で、聴いていてちょっと辛い。
コルトレーンの演奏は、まだ、ジャズの演奏として、その音を聴く行為、その音を楽しむ行為がギリギリ出来るが(れなりの覚悟と体調の良さが必要だが)、コルトレーンの存在しない演奏は、ジャズの演奏として、その音を聴くことがちょっと辛く、音を楽しむことが出来ない。ここまで激しく暴力的だと、この音を聴くことは「苦行」である。
アリス・コルトレーンは、自らのリーダー・セッションを、亡き夫君のジョン・コルトレーンのセッションとカップリングし、リリースすることで、何を言いたかったのか、何を表現したかったのかがイマイチ判らない。見開きジャケットを見れば、左は宗教、右は政治を表しているように見える。これは何だったのか。ジャズに明らかに思想を持ち込んでいる。
もはや、このアルバムは、ジャズのアルバムでは無く、思想を持ち込んだ、一種宗教的な要素を持ったアルバムである。ジャズとして純粋に耳を傾けるにはちと辛い。コルトレーン生前の演奏については、コルトレーンのディープなファンにとっては一度は聴いておくべき演奏だろうが、一般のジャズ者の方々は、無理をして聴く類のものでは無い。
コルトレーンのアルバムの聴き直しについては、このアルバムを最後にするべきアルバムではあるが、アリス・コルトレーンによって「加工された」このアルバムは、純粋にコルトレーン・ジャズとしては聴くことの出来ない、実に困ったアルバムである。
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