トレーン逝去8ヶ月前のライブ盤
ジョン・コルトレーンが亡くなったのは1967年7月17日。今年で37年になる。それでも、突如として未発表音源が発掘されたり、既発の音源を充実させ、リマスタリングしてリイシューしたりで、まだまだ新しいアルバムが出てくる。凄いなあと単純に感心してしまう。
今年は2014年。21世紀になって10年以上が経過した。最近では、ジョン・コルトレーンの人気も以前ほどでは無いのでは、とも思うんだが、今年もまたまた、ジョン・コルトレーンのライブ音源がリイシューされた。そのライブ盤の触れ込みが「ジョン・コルトレーンの貴重発掘ライヴ音源盤『At Temple University 1966』が完全版で再登場」。
改めて、John Coltrane『Offering: Live At Temple University』(写真左)。1966年11月11日に米フィラデルフィアのテンプル大学で開催したコンサートの模様を収録したもの。逝去の8ヶ月前の演奏になりますね。以前のリリースはフルセット音源では無かったそうで、今回はこの「フルセット音源」が売り。CD2枚組のボリュームでのリイシューです。
全編、アブストラクトなフリーキー・コルトレーンです。とにかく、徹底的にフリーに吹いていて、フリー・ジャズが苦手な人には絶対にお勧めしませんし、ジャズ者初心者の方々にも、このライブ盤はお勧めしませんね。他にもっと良いジャズ盤が沢山あるので、敢えて、このライブ盤に手を出すことはありません。
それでも、冒頭の「Naima(ナイーマ)」は、なかなか聴き応えがあります。フリーなコルトレーンの中でも、まだ聴き易い演奏でしょうか。それもそのはず、ファラオが遅れたため、カルテットでの演奏なんですね。このカルテットだけの演奏であれば、まだなんとか我慢して聴けるのですが、ファラオ・サンダースが入ってくると、途端にフリー・ジャズの質が落ちる。
ファラオの凶暴で滅茶苦茶なソロが出てくると、思わす「げんなり」する。これはもはや音楽では無い。サックスを使った「叫び」であり「嘶き」である。それが精神の発露であるとか、精神の解放であるとか、いろいろと捻くれた理屈をつけることは可能だろうが、これは音楽では無い。
少なくとも、子供に聴かせたら、皆、一様にそっぽを向く。この「嘶き」を快く聴くことが出来るのは、捻くれた理屈好きの大人だけだろう。僕は、なぜ、コルトレーンはこのファラオを採用し、共に演奏しつづけたのかが判らない。確かに、ファラオの暴力的で無味乾燥な無茶苦茶なソロを聴けば、コルトレーンのフリーキーなソロがまだ穏やかに聴こえるが、そんな対比の為に使い続けた訳でもあるまい。
まあ、コルトレーンもファラオも体力の続く限り、アブストラクトに激しくグロテスクに、思いっきりフレーズ無きフレーズを吹き続けるわけだが、それが音楽として成立するんだろうか。宗教の苦行として解釈すれば、それはそれで「あり」なんだろうが、この演奏は、基本的に「ジャズ」であり「音楽」であるはずだ。
しかも、「Leo」では2回、最後の「My Favorite Things」では1回、なんとコルトレーンの歌声が聴かれる。「Leo」の2回目と「My Favorite Things」では胸板をたたいてトレモロまでしてしまっている。う〜む、ここまで来ると、もう良く判らん。
ファラオの暴力的でグロテスクでアブストラクトなソロ、コルトレーンのゴリラの様な歌声。スピリチュアルと言えば聞こえは良いが、これが「鑑賞の為の音楽」かと言えば、これは違うだろう。コルトレーンの最晩年の演奏を擬似体験するのには格好のライブ盤だが、普通のジャズ・ファンの方々には無縁の音源だろう。
しかし、この演奏は、コルトレーン逝去の8ヶ月前のライブ録音。この圧倒的にアブストラクトな演奏を聴くにつけ、コルトレーンって、この演奏の8ヶ月後にあの世に旅立つなんて、これっぽっちも思っていなかったんだろうな、と思う。
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