なんだか一貫性の無い『Nucleus』
1970年代のロリンズは、超然と悠然と心の趣くままにテナーを吹く。でも、バック・バンドの演奏は、その時その時のトレンドをしっかりと取り込んでいたりするから面白い。
Sonny Rollins『Nucleus』(写真左)を聴いてみるとそれが良く判る。1975年9月の録音。ちなみにパーソネルは、Sonny Rollins (ts,ss), George Duke (p,el-p,syn), Raul de Souza (tb), Bennie Maupin (ts,b-cl,saxello, lyricon), Chuck Rainey (el-b), Eddie Moore (ds), Mtume (con,per), Bob Cranshaw (el-b), Roy McCurdy (ds), David Amaro ,Dewayne Blackbird McKnight (g)。総勢11人の大所帯での演奏である。
パーソネルを眺めると、出てくる音がちょっとだけ予想できるの。キーボードのジョージ・デューク、ベースにチャック・レイニーがいて、テナーのパートナーにヘッドハンターズに参加していたベニー・モウピンがいる。ムトゥーメのコンガ&パーカッションも入っているということで、ソウル・ミュージックをベースにしたクロスオーバーなジャズが展開されるのでは、と想像する。
で、冒頭の「Lucille」から2曲目の「Gwaligo」を聴くと、正に、ロリンズのバック・バンドは、ソウル・ミュージックとジャズの融合音楽を奏でているのだ。コッテコテとはいかないまでも、どこから聴いても「ソウル・ミュージック」の雰囲気が濃厚なソウルとジャズの融合音楽が展開される。1960年代のソウル・ジャズとは全く異なる、クロスオーバー・ジャズとしての、ソウル・ミュージックとジャズの融合音楽。
アルバム全体を通じて、ロリンズにしては珍しいファンク色の濃いアルバムに仕上がっている。曲が進むにつれて、メインストリーム・ジャズの要素が多くなってきて、アルバム全体がファンクネスに溢れた演奏にはなってはいないところが面白い。曲が進むにつれて、メインストリーム・ジャズ度が高くなる。
とにかく、このアルバムは、ロリンズにしては珍しいファンク色の濃いアルバムに仕上がってはいるんだが、リーダーのロリンズのテナーはそんなことは意に介さず、超然と悠然と心の趣くままにテナーを吹く。ロリンズならではのフレーズが満載のロリンズ・テナーが吹き上げられています。これが実にロリンズらしくて良い。
客演のベニー・モウピンも最初はファンクネス溢れるテナーを展開しているが、曲に進むにつれ、フリー・ジャズ度がどんどん上がっていくところは、リーダーのロリンズと同じ。ラス前の「Cosmet」なんか、途中からフリーに吹きまくりになる。そして、終わりの曲では、もはやファンクネス溢れるソウルとジャズの融合なのか、ちょっと時代を遡ったモーダルな演奏なのか、よく判らん様な状態になっている。
なんだか一貫性の無いアルバムなんだが、その中で、ロリンズだけが、ぶれずに超然と悠然と心の趣くままにテナーを吹いている。それでもなお、色濃いファンクネスは、ロリンズにしては珍しいファンク色の濃いアルバムとして、このアルバムはロリンズの異色盤の扱いを受けている。
それにしても、このアルバムは一貫性が無い。まあ、一貫性の無さを併せて、一般ジャズ者向けでは無く、ロリンズ者、所謂、ロリンズ・マニア向け。無理して聴く必要はありません。でも、ロリンズの足跡を追うには、このロリンズにしては珍しいファンク色の濃いアルバムは必須のアイテムではあります。
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