サンボーンの硬派なアルトです。
ミュージシャンとして、本人の意図するところとは違う聴き方をされるって、かなり複雑な気分なんだろうな、と思う。沢山の人々に聴いて貰うのは嬉しいことなんだが、意図するところとは全く違うところを評価されるって、やっぱり気分は複雑だろうな、と思う。
そんな、本人の意図するところとは違う聴き方をされる、最右翼のジャズメンのひとりが、David Sanborn(デビッド・サンボーン)だろう。彼ほど、本人の意図するところと違った聴き方をされるミュージシャンも珍しい。
彼のアルト・サックスは、フュージョン・ジャズからスムース・ジャズの流れに乗ったものではあるが、基本的には、硬派で意外と純ジャズな、正統派アルト・サックスである。白人でありながら、そこはかとない、白いファンクネスを湛えたストレートなブロウは、かなり個性的。
ストレートなブロウで、ブラスの響きを煌めかせながら、唄う様に奏でるサンボーンのアルトは「泣きのサンボーン」と形容され、その情緒的なフレーズは、サンボーンならではのもの。確かに、本当に良く鳴るアルトであるし、そのテクニックたるや、相当高度なものだ。
そのサンボーンのアルトの個性を十分に感じることが出来るアルバムが、このセカンド盤のDavid Sanborn『Sanborn』(写真左)。邦題は「メロウ・サンボーン」。1976年のリリースになる。
1976年と言えば、フュージョン・ジャズが全盛に向かって、どんどん勢力を広げていっている時代。このアルバムも、例に漏れず、しっかりとフュージョン・ジャズしている。が、サンボーンのアルトは、決して、ソフト&メロウな、甘くて耳当たりの良いものでは無い。かなり硬派でストレートなガッツのあるアルトなのだ。
そんなシッカリと硬派なアルトが、これまた、メリハリの効いた、柔軟度のあるリズム・セクションに乗って、唄う様に奏でられていくのだから、当時、流行だった「ソフト&メロウ」なフュージョン・ジャズとは一線を画した、実はかなり硬派なコンテンポラリーなジャズの一面を覗かせてくれる。
しかし、当時、サンボーンのアルバムはそういう聴き方をされていなかった節がある。サンボーンのアルトには「ながらのサンボーン」という形容もある。しっかりと対峙して聴き込むタイプの演奏では無く、何かをしながら、例えば、仕事をしながら、食事をしながら、いわゆる「〜しながら」聴く、BGM的な聴き方をされることが多かった。
加えて、恋人と語らい合う時、恋人とドライブをする時、恋人とムーディーな瞬間を演出したい時、などなど、恋人たちのBGMとして、いわゆる「〜しながら」聴く、BGM的な聴き方、アクセサリー的な使われ方をされることが多いのだ。
サンボーンのインタビューの中で、そんなBGM的な聴き方、アクセサリー的な使われ方をされていることを告げられて、その話に対して、ちょっと憤りを感じた旨の話が出ていたが、確かに、サンボーンは悩んでいるし、嘆いてもいる。
サンボーンは、内容の良いブロウをすればするほど、確かにアルバムは売れるのだが、売れた分、BGM的な聴き方、アクセサリー的な使われ方をされることも多くなる。
サンボーンのアルトは、硬派で高テクニックでありながら、そんなことを微塵も感じさせず、印象的でキャッチャーで流麗なフレーズを連発するので、その流麗さが故に、BGM的な聴き方、アクセサリー的な使われ方をされるんだと思っている。その流麗さが、意外と仇になっている。
でも、何もBGM的な聴き方、アクセサリー的な使われ方をするリスナーばかりでは無い。特に、このセカンド盤をしっかりと聴けば、サンボーンのアルトは、決して、ソフト&メロウな、甘くて耳当たりの良いものでは無い、かなり硬派でストレートなガッツのあるアルトであることに気付くはずだ。
とにかく、このセカンド盤の邦題「メロウ・サンボーン」はいただけないなあ。このアルバムでのサンボーンのアルトは「メロウ」なものでは決して無い。この邦題、サンボーン本人が知ったら、さぞかし落胆するだろうな。
邦題を付けるにしろ、アルバムの評論を書くにしろ、ミュージシャン本人の意図をしっかりと把握してからにすること。それでないと、ミュージシャン本人に失礼である。
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