こんなアルバムあったんや・2 『Buttercorn Lady』
「こんなアルバムあったんや」シリーズ第2回目。第1回目は、キース・ジャレットのパイプオルガンのソロアルバムについて語ったのだが、第2回目も、今一度、キース・ジャレットつながりで語りたい。
Art Blakey And The Jazz Messengersと言えば、マイルス・デイヴィスのグループと並んで、ジャズ界きっての新人の登竜門バンド。リーダーのブレイキーは、このバンドのメンバーとすることで、多くの新人を発掘するとともに多くの著名なミュージシャンが巣立った。
加えて、Art Blakey And The Jazz Messengersは、リーダーであるブレイキーが逝去し、解散を余儀なくされるまで、正統なハードバップ・ジャズからファンキー・ジャズ、そして、モード・ジャズという、主流派としてのメンストリームなジャズを身上としており、決して、フリーやアブストラクトなジャズに傾倒することはなかった。
そんなArt Blakey And The Jazz Messengersに、あのジャズ・ピアノの奇才キース・ジャレットが在籍していた時期があるのだ。キースの革新的で現代音楽的な響きのジャズ・ピアノとジャズ・メッセンジャーズのコッテコテのハードバップとは相容れ無いとは思うのだが、確かに在籍していた時期がある。調べてみると、1965年、キースはArt Blakey And The Jazz Messengersに、ジョン・ヒックスの後任として加入、4ヶ月ほど参加している。
たった4ヶ月の参加だったので、正式な録音音源は無いのだろうと思われるかもしれないが、それが「ある」。Art Blakey And The Jazz Messengers『Buttercorn Lady』(写真左)である。ちなみにパーソネルは、Art Blakey (ds), Keith jarrett (p), Chuck Mangione (tp), Frank Mitchell (ts), Reggie Johnson (b)。1966年1月のライブ録音になる。
先にも書いたが、キースの革新的で現代音楽的な響きのジャズ・ピアノとジャズ・メッセンジャーズのコッテコテのハードバップとは相容れ無いものだと思うんだが、この『Buttercorn Lady』を聴いていて、確かに、ジャズ・メッセンジャーズとキースはかなりのミスマッチではある。
そして、キースの参加と同様、「へえ〜っ」と感心の声を上げるのが、トランペットとして、チャック・マンジョーネが参加していること。チャック・マンジョーネは、フュージョン時代の寵児として「フィール・ソー・グッド」を大ヒットさせた、どちらかといえばフュージョン畑のトランペッターという印象が強いが、正真正銘、ハードバップでモーダルな正統派トランペッターだったんですね。
まずは冒頭の「Buttercorn Lady」が違和感の始まり。キースが、のー天気なカリプソ・ナンバーのバッキングを神妙にしていること自体が違和感の塊。演奏全体の雰囲気はファンキーでアーシーなジャズなんだが、キースのソロはなんとかしてリリカルかつ革新的に弾きまくりたくて仕方の無いような雰囲気で、演奏全体の雰囲気とはちょっと異質なソロを繰り広げる。まあ、キースにはカリプソはあわんわな(笑)。
2曲目以降、キースは、ジャズ・メッセンジャーズの伝統である正統なハードバップ・ジャズからファンキー・ジャズ、そして、モード・ジャズという、主流派としてのメンストリームなジャズの枠をはみ出て、時にアブストラクトに、時にややフリーキーに、時に限りなくモーダルに、自分のソロをコーディネートしていく。
加えて、ここでのマンジョーネのトランペットは、完全にマイルスのコピーと言って良いほど。これほどまでに似て吹かなくても良いのに、と思えるくらい「そっくり」に吹く。よって、マンジョーネはマイルスよろしく、モーダルでリリカル。とにかく、マイルスの様に吹きまくりたくて仕方が無いようで、従来のジャズ・メッセンジャーズのトランペッターとはちょっと異質なソロを繰り広げる。
これにはアート・ブレイキー御大もお手上げ状態で、キースとマンジョーネが好き勝手なソロを繰り広げている時は、とにかく、適当にバッキングしているだけのような感じ。特に、キースのピアノの自由度は、完全にジャズ・メッセンジャーズのキャパを超えており、最終的にはキースのソロやバッキングが浮いている(笑)。
加えて、フランク・ミッチェルのテナーはコルトレーンの完全コピーと言って良いほどではあるが、出来は余り良くない。これが、マンジョーネのトランペットと徒党を組んで、ややアブストラクトでフリー寸前のモーダルな演奏をやるもんだから、もう大変{笑)。
ブレイキー御大のドラムも健闘はしているが、どうしてもハードバップなドラミングに終始することになる。ブレイキーに、ややアブストラクトでフリー寸前のモーダルな演奏は似合わない(笑)。キースなどは、自分の好き勝手なバッキングを決め込んでいて、決して、フロントの2人の誘いや挑発に乗らない(笑)。
しかし、凄いバラバラの内容のアルバムです。どの演奏も、当時のトレンドの一つだった演奏フォーマットにフィットすること無く、マンジョーネとフランク・ミッチェルの物真似ぶりが耳について、キースがその個性的なピアノを我関せずという感じで弾き続け、ブレイキー御大は、詰まるところ、従来からの十八番であるハードバップなドラミングに終始する。
このライブ盤を通して言えることは「ただひとつ」。キースのピアノはそれまでにない個性と響きを持っていて、その個性と響きに対応するリズム・セクションは、従来からのベテラン・ミュージシャンでは無理がある、ということ。それだけ、キースのピアノの個性と響きは革新的だったということである。
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