フリー・ジャズを理解するには
ジャズを聴き始めてから、20年位経った頃だろうか。突如として、フリー・ジャズの良し悪しが何となく判るようになった。というか、フリー・ジャズを楽しんで聴くことが出来るようになった。不思議な話だが本当の話だ。
ジャズを聴き始めた頃、フリー・ジャズは別に苦にはならなかった。クラシック・ピアノをやっていたせいもある。クラシックの不協和音については違和感が無く、クラシック系の現代音楽もFM放送を通じて、子供の頃から耳にしていたので、フリー・ジャズのアブストラクトな面には違和感は無かった。当然、うるさい演奏とも思わなかった。
しかし、何が良くて何が悪いかが良く判らない。演奏テクニックという面では、フリー・ジャズは純ジャズと同様、判別することが出来る。でも、フリー・ジャズの良し悪しは「演奏テクニック」だけでは無い。フリー・ジャズの良し悪しを判別する基準とは何か。これが、ジャズを聴き始めてから20年間、さっぱり判らなかった。よって、フリー・ジャズを聴いていても面白くない。
が、40歳を越えた頃だろうか。恐らく、聴く側に心の余裕が出来てきたのだろう、フリー・ジャズの演奏フレーズをじっくりと聴き分けられるようになった。
そして、フリー・ジャズって、本能の赴くまま、感情の赴くまま、楽器を吹きまくっているのではなくて、しっかりと音楽としての演奏のベースを押さえつつ、フリーキーに吹きまくる部分はあるけど、最後は必ず、従来の音楽演奏の基本に戻って、結果として、しっかりと「音楽」として「演奏」としての形態をキープしている。そんな当たり前のことが、40歳を過ぎた頃にやっと判った。
そりゃあそうで、フリー・ジャズとは言え「音楽」やもんな。音を楽しむには、最低限の音楽演奏のマナーはキープしていないと、音は楽しめない。フリー・ジャズを演奏する方は、それを十分判っていただろうが、ジャズを聴き始めた頃は、僕にはそれがさっぱり判らなかった。フリー・ジャズとは言え「音楽」である。それが理解出来て以来、フリー・ジャズの良し悪しが何となく判るようになった。
その切っ掛けになったアルバムが、Albert Aylerの『Spiritual Unity』(写真左)。バリバリのフリー・ジャズの名盤である。相当にアブストラクトな演奏ではあるが、そのアブストラクトな演奏の中に、しっかりと歌心を湛えた、極上のフレーズが突如として現れたりする。
フリーに吹きまくっているように聴こえるが、フリーなブロウの底に、しっかりとリズム&ビートを押さえている冷静な部分があって、どれだけフリーに吹きまくっても、演奏全体が「音楽」として破綻することは無い。
これが、優れた「フリー・ジャズ」というものなんだ、ということが、やっとのことで、ジャズを聴き始めて20年経って判った。アブストラクトでフリーキーな演奏で、一聴すると「やかましい」が、暫く聴き進めて行くと、極上のフレーズに出くわし、素晴らしいテクニックに出くわし、ジャズの基本である、躍動感溢れるリズム&ビートを感じる。
フリー・ジャズとは言うが、本能の赴くまま、感情の赴くまま、楽器を吹きまくっているのではない。しっかりと「音楽」の基本を押さえつつ、「演奏」としての形態をキープしながら、最大限の自由を表現するものだということが判ってからと言うもの、フリー・ジャズも心から楽しめる様になった。
特に、アブストラクトでフリーキーな演奏の中に、極上のフレーズに出くわした時の快感と言ったらもう、それはそれは幸せな気分になれる。
うも、フリー・ジャズを理解するには、聴く側に心の余裕が必要な様だ。その心の余裕も得るには、通常、年齢の積み重ねということが必要なようだ。そう考えると、年齢を重ねることも悪くは無いなあ、と思えるようになった(笑)。
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