やや不完全燃焼なカーク盤 『Domino』
日本ではどうにもマイナーな存在のローランド・カーク。「グロテスク・ジャズ」と形容され、「黒眼鏡の怪人」と呼ばれ、カークの音楽性や音の個性を純粋に評価される以前に、とんでもない形容、誤解をされることが多い。今では、もうその名前さえ、挙がることも少なくなった。
複数のリード楽器を一気に咥えて吹き鳴らすとか、唄いながらフルートを吹くとか、サイレンを鳴らすとか、そんな個性全快のアルバムが一番良いのだが、ジャズ雑誌などで、ローランド・カークを紹介される場合、そんな個性を控えめに奥にしまいこんで、テナー・サックスを中心としたリード楽器とフルートの演奏力を全面に押し出した端正なアルバムを紹介されることが多い。
例えば、このRoland Kirk『Domino』(写真左)などはその好例だろう。1962年4月の3つのセッションを基に編集されたアルバム。その3つのセッションのパーソネルを見渡すと、Wynton Kelly (p), Andrew Hill (p), Herbie Hancock (p) と当時の若手有望ピアニストが3人、名を連ねている。なるほどね。アルバム紹介の時に話題にはなるなあ。
といって、この3人のピアニストがそれぞれのセッションでピアノを担当したからといって、ローランド・カークの演奏の質が変わるとか、化学反応が起きて一期一会の名演が展開されるとか、そういう劇的な出来事はここでは起きない。敢えて言えば、ローランド・カークには、ウィントン・ケリーのハッピー・スインガーなピアノが合うなあ、ということ位だろうか。
ローランド・カークとハービーとかヒルとの間には、あまり目立ったことは起こっていない。特に、ハービーのモーダルなピアノには、カークは合わないだろうな。ヒルのやや前衛的でパーカッシブなモーダル・ピアノにも合わないだろうな。何故って、カークのサックスこそがフルートこそが誰よりもモーダルであり、前衛的であり、パーカッシブであるからである。
そういう意味で、この『Domino』というアルバムでのローランド・カークの個性は、共演者との相性という面でかなり抑制されており、聴けば聴くほど、このアルバムでのカークのパフォーマンスは常識的であり、端正であり、正統派な演奏が中心になっている。
アルバムの後半、6曲目の「3-In-1 Without The Oil」では、カークの個性全開の兆しが聴けるが、次の「Get Out Of Town」では、常識的な演奏に立ち戻る。どうにも、カークの個性全開、フルスロットルというところまでは行かない。「端正」かつ「正統」なテナーとフルートが全面に押し出されていることが実にもどかしい。
この『Domino』というアルバムを、ローランド・カークの初期の傑作とするには、ちょっと個性不足だろう。「端正」かつ「正統」なテナーとフルートが全面に押し出されているところが注目ポイントとするなら、僕は、1961年8月録音の Roland Kirk『We Free Kings』を推したい。
でも、ローランド・カークの初期の傑作として、この『Domino』を推す日本の評論家は多い。まあ、ピアノにWynton Kelly, Andrew Hill, Herbie Hancockという有名どころが名を連ねているので、話題にし易いし、評論もし易いんだろう。でも、この3人のピアニストとの組合せでカークが輝くことが無いという点を考えると、このアルバムは、ローランド・カークの初期の傑作とは言い切れないと思う。
但し、内容的には悪くは無い。中の上。ところどころカークの個性が垣間見えるところが良くもあり、もどかしくもあり。カークの個性を愛でるなら、もっと良い内容のアルバムがある、と思ってしまう、なんとも中途半端な、不完全燃焼なアルバムである。
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松和のマスター様 こんばんは
ローランド・カークはちょっと前に1800くらいで色々再発されていましたね。
確か日本初cd化も多かった気がします。
再評価の機会になるといいですね。
投稿: GAOHEWGII | 2014年5月28日 (水曜日) 17時12分