タイトルずばり『Free Jazz』
フリー・ジャズを開拓したジャズメンとして紹介されるオーネット・コールマン。フリー・ジャズの祖、と呼ばれるだけで、ジャズ初心者の時は思わず敬遠してしまう、そして、ジャズはハードバップが全てと認識しているジャズ者の方々からは忌み嫌われる。オーネット・コールマンはちょっと損をしている。
恐らく、このアルバムの存在がそんな誤解に拍車をかけるんだろうなあ。そのアルバムとは『Free Jazz』(写真左)。アルバムのタイトル自体が「ど真ん中」(笑)。自ら「フリー・ジャズ」の担い手と認識しているところが、オーネット・コールマンの凄いところというか、とっぽいところである。
1961年12月の録音。パーソネルは、Ornette Coleman (as), Don Cherry (tp), Scott LaFaro (b), Billy Higgins (ds), Eric Dolphy (bcl), Freddie Hubbard (tp), Charlie Haden (b), Ed Blackwell (ds)。ん〜っ、よくよくパーソネルを見ると、ダブル・カルテット構成ですね。
すなわち、オーネット・コールマンのカルテット(ドン・チェリー、スコット・ラファロ、ビリー・ヒギンズ)と、ここではバスクラリネットに専念しているエリック・ドルフィーのカルテット(フレディ・ハバード、チャーリー・ヘイデン、エド・ブラックウェル)が同時に演奏するという、今から思っても「どうしてそ〜なるの」的な、摩訶不思議なフォーマット。
さぞかし、混沌とした、不協和音の坩堝(るつぼ)の様な演奏が延々と繰り広げられるのだろうなあ、とちょっと憂鬱な面持ちで、このアルバムに耳を傾けてみると、どうしてどうして、結構、メインストリームなジャズではありませんか(笑)。
僕は、オーネットの「フリー・ジャズ」を「規則やアレンジやコード進行に縛られないが、なんらかの取り決め、なんらかの決めごとに則って、フリーキーな風に吹く、限りなく自由度の高い即興演奏」と理解している。決して、本能の趣くまま、無勝手に調性を全く無視して吹きまくるのでは無い。それは「音楽」では無く「音」だろう。
つまり、それまでの従来の決め事、形式、ルーティンに囚われず、出来る限り自由に、出来る限り自分の感性に従って演奏する。それをオーネットは「フリー・ジャズ」と呼んだのではないか、と睨んでいる。しかし、高邁な音楽理論みたいなものは無い。あくまで感覚と簡単な取り決めのみで進行されていくようだ。
そういう感じでこのアルバム『Free Jazz』を聴くと、結構、真っ当な、というか、正統なメインストリーム・ジャズの枠の中にしっかり入っている、実に伝統的なジャズに聴こえる。
段取りはしっかり決められていたのは間違いないでしょう。皆、自由に振る舞っている様ですが、合い間合い間に短いテーマも入るし、かけあいもあるし。しっかりとアレンジされている。特にリズム・セクション。二人ずついるベースとドラムスも役割分担がしっかりとなされている。
つまり、出来る限り自由に、出来る限り自分の感性に従って演奏するんだが、決して、同じ楽器で演奏が重ならない様に配慮する。この「配慮」がこれまた、出来る限り自由に、の部分を増幅しているように聴こえる。
『Free Jazz』のタイトルにびびらずに、ジャズ者中級者以上の方々は手を出して良い、意外と正統派のメインストリーム・ジャズだと思います。しかし、この演奏を自ら『Free Jazz』って名付けるかなあ。意外とオーネットって、あっけらかんとしていて図々しいのかもしれません(笑)。
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