コルトレーンの迷いと諦め
1965年、コルトレーンは、急速に加速をつけるようにフリー・ジャズの世界に突入していく。このアルバムは、その最右翼に位置するもの。そのアルバムの名は『Om』(写真左)。
1965年10月1日の録音。ちなみにパーソネルは、Joe Brazil (fl) Donald Garrett (bcl, fl) John Coltrane, Pharoah Sanders (ts) McCoy Tyner (p) Jimmy Garrison (b) Elvin Jones (d) unknown (per) unknown (voice) 。既に、黄金のカルテットのみの演奏では無い。コルトレーンの傍らに、ファラオー・サンダースが寄り添っている。
このアルバムは、収録曲はタイトル曲の「Om」1曲のみ。LP時代の収録は、以下の様になる。
Side A「Om, Part 1」 15:06
Side B「Om, Part 2」 14:01
CDでは、このSide AとSide B を一気に連続して聴くことが出来る。目眩く「混沌と観念」の音世界。凄まじいフリーキーなブロウ。これが「音楽」か、と訝しく思う。
冒頭、バー・チャイムの様な金属的で静謐なパーカッションの響きから入る。そして、やってきました(笑)、コルトレーンのフリーキーなテナーのブロウにフリーキーなフルートが絡む。テナーもフルートもアブストラクトなブロウに終始する。ただただ、息の続く限り、馬の嘶きの様に、人の叫びの様に、不調和に吹きまくる。
そして、呪術の様なボイスの響き。アフリカン・ネイティブな響き。原始への回帰か、と思いきや、またまた、アブストラクトで混沌とした無調和な嘶きが、いきなり音の塊となって迫ってくる。
このアルバムでの、コルトレーンのブロウは、単に馬の嘶きのように、無勝手に吹きまくるだけ。何の展開も何の思想も何の志向も無い。ただ、嘶きのように吹きまくるだけ。既に音楽では無い。観念的な感情にまかせて吹きまくるだけ。
但し、このアルバムでのコルトレーンは、フリージャズを演奏する、という意味で、 決して優れているとは思えない。馬の嘶きのようなブロウは単調で、フリーキーなブロウとしては、決して「自由」では無い。アブストラクトなブロウとして、決してバリエーション豊かとは言い難い。
他の新進気鋭のテナーマンのフリージャズの台頭著しい中、コルトレーンは焦っていたのではないか。この『Om』には、コルトレーンの迷いと焦りと諦めがギッシリと詰まっているように、僕には感じる。
『OM』とは『南無』のこと。帰依を意味する。ライナーノーツには『Om Mani Padme Hum』と記されている。その意味するところは『聖なる蓮の華(=仏陀)に帰依する』。神を信ずる、神に頼む道に入る。このアルバムの嘶きの様なブロウを聴けば、さもありなん、と思う。
このアルバムは、まず、決して、ジャズ者初心者の方は触れてはいけません。普通のジャズ者の方々も避けて通っても良いアルバムでしょう。
コアなコルトレーン者の方々にだけ、このアルバムは一聴することをお勧めします。決して、名盤たり得ない状態のコルトレーンの真の姿、真の想いを感じることも、コアなコルトレーン者には必要でしょう。
大震災から1年が過ぎた。決して忘れない。常に関与し続ける。
がんばろう東北、がんばろう関東。自分の出来ることから復興に協力しよう。
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