頭で考えたフリー・ジャズ
せっかくの自宅療養だったので、なかなか、普段に聴くことが出来ないアルバムを聴こうと思い立った。さて、普段、なかなか聴くことが出来ない盤とは如何なるものか・・・。
入院して以来、具合の悪い時期を経て、なんとか快方に向かい始めた時、入院する前に何をしていたのか、ごっそりと記憶がおぼろげになっていたのにはビックリした。仕事関係の人の名前もごっそりと忘れているのにも閉口した。俺って何してたんやっけ・・・?。
そう言えば、ジョン・コルトレーンのリーダー作の聴き直しが佳境に差し掛かり、いよいよコルトレーンの晩年、インパルス時代の最大の山場を迎えていたのを思い出した。そう、入院直前に聴き始めていたアルバムが『Ascension(アセンション)』(写真左)。コルトレーンのリーダー作の中で最大の「問題作」とされている盤である。
ジャズを聴き始めた頃、ジャズ盤紹介本には、こぞって「この盤は初心者は聴いてはならない」とか、「これは問題作ではあるが傑作ではない」とか、「コルトレーンのマニアだけが聴けば良い」とか、「これは最早ジャズではない」とか、なんだか「おどろおどろしい」評価が蔓延していた。でも、そこまで「おどろおどろしい」のであれば、かえって聴きたくなるのが人情ではありませんか(笑)。
ジャズ者初心者の頃、コッソリと例の「秘密の喫茶店」で聴かせて貰った。いや〜、これがフリー・ジャズだと感心しました。が、聴き進めるに従って、聴くのに苦痛では無いんですが、なにか演奏全体にぎこちなさが蔓延しているみたいで、フリー・ジャズを演奏していながら、なんだか意外と自由がきかない風の演奏を聴いていて、これってほんまにフリー・ジャズなの、って訝しく感じたのを覚えています。
さて、今の耳で聴いてみると、これは「頭で考えたフリー・ジャズ」だと感じました。本能のおもむくままに演奏するのが「フリー・ジャズ」だと曲解されることが多いですが、そんなことしたら「音楽」として成立しない可能性があります。本能のおもむくままではなく、ある一定の最低限の取り決めのみをしっかり意識して、その取り決めを意識している範囲内では好きに演奏しても良い、というのがフリー・ジャズだと僕は思います。
この『Ascension』も資料によると、コルトレーンの手によるラフな楽譜的なスケッチがあったそうで、そういう意味では、純粋なフリー・ジャズとは言えないでしょう。まあ、総勢11人による演奏ですから、フリー・ブローイングが前提とは言え、何かしらしっかりとしたベースが無いと、なかなか演奏としては成立しないでしょう。
それぞれのソロの演奏も、とりわけフリーキーなブローイング、アブストラクトなブローイングをする必要も無いフレーズが多々出てきますが、とにかくこのアルバム、フリー・ジャズを前提とした演奏が主目的なので、ソロイストはこぞってわざわざリーキーなブローイング、アブストラクトなブローイングを意識して演奏しています。「頭で考えながら演奏している」ということが雰囲気で良く判ります。コルトレーンの意図することがかなり抽象的だったのでしょうか。ソロイストは皆、考えながら、自らの演奏を咀嚼しながらブローを続けています。
意外と「作られた感」のあるフリー・ブローイング集です。底に漂う「構築美」がこのアルバムの演奏の「ミソ」だと思います。この「構築美」を感じ取るか感じ取れないか、でこのアルバムに対する評価は分かれると思います。ちなみに僕は、このアルバムには、「これは最早ジャズでは無い」等という違和感は感じませんでした。ただ、ジャズ者の皆さんが「マストアイテム」として捉える盤では無いでしょう。
確かに「コルトレーンのマニアだけが聴けば良い」とは的を射た評価でしょう。このアルバムには、コルトレーンの「フリー・ジャズ感」とコルトレーンの「フリー・ジャズに対する限界」が見え隠れします。コルトレーンのマニアの方々には必須。そうでなければ敢えてこの盤に耳を傾けなくても、フリー・ジャズを体感できる優秀盤は他に沢山あります。「フリー・ジャズと言えばこれ(コルトレーンのアセンション)」という評価は当たらないでしょう。
ちなみにCDでは「エディション2」と「エディション1」の両方を聴くことが出来ます。最初は「エディション1」でリリースされたそうですが、ほどなく、コルトレーン自らの発案により「エディション2」に差し替えられ、LP時代、『アセンション』と言えば「エディション2」でした。どちらも甲乙付けがたい演奏ではありますが、「エディション2」の方が各メンバーの戸惑い度合いが軽いかな、と思います。「ええぃ、やっちまえ〜」という開き直り度が「エディション2」の方が高いってことでしょうか・・・。
最後に録音データを。パーソネルを列挙すると、Freddie Hubbard, Dewey Johnson (tp) Marion Brown, John Tchicai (as) John Coltrane, Pharoah Sanders, Archie Shepp (ts) McCoy Tyner (p) Art Davis, Jimmy Garrison (b) Elvin Jones (ds) の総勢11名。Rudy Van Gelder Studioでの1965年6月の録音。今から46年前の出来事になります。
★Twitterで、松和のマスターが呟く。名称「松和のマスター」でつぶやいております。ユーザー名は「v_matsuwa」、「v_matsuwa」で検索して下さい。
がんばろう日本、がんばろう東北。自分の出来ることから復興に協力しよう。
« 久しく臨時休業が続いています | トップページ | クールな響きのオルガン・ジャズ »
フリージャズは時々正面から聴くこともありますが、音楽もさることながら、世に出回る「フリージャズの評論家解説」?ほどあやしげで不信感あふれる文章はない、と思っています。(~_~;)
だいたいからして哲学書でもあるまいし、わかりやすいことをわざと難解複雑怪奇な文章で煙にまく、がごときインチキ文章@ひとりよがりで多くのフアンをあざむいてきた、としか思えません笑。
そもそもSJ誌でかつて「ジャイアントステップスはモードではなかった」なんて大特集記事がありましたが、ということは評論家の多くもモードジャズを理解していないのだなあ、という恥さらしな記事でもありましたね。(~_~;)
なにを書いたらいいかわならないからうなりながら難解な文章でごまかす・・・これこそフリージャズを超マイナーな音楽に押し込んだ元凶だと思っています。
私はコルトレーン他のフリージャズはミステリー小説を読む際のバックグラウンド音楽として楽しんでいますです。(~_~;)v
投稿: おっちゃん | 2016年5月20日 (金曜日) 06時15分