決して「凡作」ではない。
著名な評論家の意見というのは、意外とまかり通るものである。音楽というものは、自分の耳で聴いてこそ、自分の感性で感じてこそ、なのであるが、人間って知性があるが故、著名な評論家の意見を読んで、それを「鵜呑み」にしてしまうことも良くある話である。
このマイルス・ディヴィスのライブ盤、Miles Davis『Black Beauty』(写真左)もそんな著名な評論家達によって、凡作の烙印を押されつつあったアルバムである。ちなみに、このライブ盤、1970年4月10日、San Franciscoは、Fillmore Westでのライブ録音。ちなみにパーソネルは、Miles Davis (tp) Steve Grossman (ss) Chick Corea (el-p) Dave Holland (el-b) Jack DeJohnette (d) Airto Moreira (per)。
まず、Steve Grossman(スティーブ・グロスマン)のソプラノ・サックスが「冗長だ」と決めつけられる。平凡なフレーズを垂れ流す、とまで酷評される。そして、この凡庸なグロスマンのソプラノ・サックスを編集でカットする、テオ・マセロの編集がないから、と決めつけられる。つまりは、ライブの事実をねじ曲げて、良い部分だけをピックアップして、つなげ直して、架空のライブ演奏を作れ、と言っているようなもの。それって、ジャズの本質に反する行為ではないのかしら。
僕の耳には、グロスマンのソプラノは「平凡で冗長」なものだとは思わない。グロスマンのソプラノは、速いビートの演奏の時には、まるで「フリー時代に突入したコルトレーン」の様に聴こえる。速いビートに、グロスマンは思わず、コルトレーンの「シーツ・オブ・サウンド」を持ってきてしまった。これはこれでありだと思うんだが、コルトレーンではないグロスマンが「シーツ・オブ・サウンド」を吹くと、コルトレーンと比べて遜色の無い、大健闘のブロウを展開していても、何故か「平凡で冗長」なものになってしまうらしい。
ミドルからスローテンポのビートをバックにしてのグロスマンのブロウを聴けば、グロスマンが何故マイルスに選ばれたか判るはずだ。それまでのジャズ界に無い、フリーなようでフリーではなく、しっかりとソプラノを鳴らしきりながら、それまでのジャズに無い、始めて聴くようなフレーズを連発する。確かに、速いビートでは、コルトレーンの「シーツ・オブ・サウンド」に傾く。でも、グロスマンの「シーツ・オブ・サウンド」って、コルトレーンと比べて遜色が無いと思うのは僕だけだろうか。
そして、このライブ盤『Black Beauty』で聴くべきは、チック・コリアのフェンダー・ローズである。絶好調のリング・モジュレーターを装備して、チックはローズを弾き倒している。ねじ伏すように、ねじり倒すように、力づくで押さえつけ制御する様に絞り出す、それはそれは印象的なフレーズの数々。前衛的で限りなくフリーではあるが、底に秩序をしっかりと備えた、激情に流れそうで流れない、実にクールなキーボード。これも、当時、今までない斬新なキーボードのフレーズ。
デジョネットとモレイラのリズム隊は凄まじいばかりのポリリズムを聴かせてくれる。これも、今までのジャズには全く無い、斬新で唯一無二なジャズのビート。ビートを重視するマイルスの面目躍如。このリズム隊のビートは凄い。そんな斬新で凄まじいビートに乗ったグロスマンのソプラノ、チックの捻りに捻りまくったチックのフェンダー・ローズ。激しいテンションに変幻万化な音色の展開、飛翔、そして爆発。
そんなバックとフロント・パートナーを得て、マイルス御大は、それはそれは魅力的な音でペットを響かせる。そして、テンション溢れる流麗なインプロビゼーションを展開し続ける。やはり、マイルスが主役のアルバムである。それぞれのメンバーは十分に練習を積んで、マイルス・ミュージックの一端を十分に理解したメンバーがバックで盛り立るのである。リーダーであるマイルス御大が悪かろうはずがない。このライブ盤のマイルスのブロウは、ブラスの響きがキラキラしている。
ロックビートで演奏していた頃のマイルス。僕にとっては「ヒーロー」である。マイルス流のロックなビートに乗って、グロスマンが吠え、チックが捻れ、デジョネットはポリリズムし、モレイラはラテンフレイバーを撒き散らす。これって、究極のコンテンポラリー・ジャズだと僕は思います。これだけテンション張ってて、これだけ個性的な内容のあるライブ盤は、そうそう有る訳ではないですぞ。
このマイルス・ディヴィスのライブ盤『Black Beauty』は、決して凡作でもなければ、冗長な内容でも無い。マイルスを始め、このメンバーで奏でるバンドは十分にコントロールされ、十分にクールで、十分に熱気が溢れている。常にやり玉に挙げられるソプラノのグロスマンであるが、一部の評論家の方々が言うように「凡庸なプレイ」とは思わない。ちょっとばかし空気の読めない「シーツ・オブ・サウンド」もそれなりの水準にあり、ミドルからスローテンポのビートをバックにしてのグロスマンのブロウには斬新さを感じる。
この『Black Beauty』は、評論家筋で言われるような「凡作」ではありません。やはり、音楽というものは、自分の耳で聴いてこそ、自分の感性で感じてこそだと思います。人それぞれの感じ方がある。このマイルス・ディヴィスのライブ盤『Black Beauty』やはり、最終的には自分の耳で聴いて、自分の想いで感じることが大切だという思いを再認識しました。ジャズ者初心者の頃は、なかなか自分に自信を持てないので困るのですが、勇気を持って、自分の耳を信じて、その音を感じて欲しいと想います。
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