メインストリーム・ジャズの自由度
マイルス・デイヴィスのアルバムの聴き直しを進めているが、久しぶりに「あれ」を聴きたくなった。「あれ」を聴く時は、ちょいと気合いが必要になる。「あれ」とは、『The Complete Live At The Plugged Nickel 1965』(写真左)。CD8枚組ボックス。一気に聴くのは、そのハードな内容故に、ちょっと無理。僕は3〜4日に分けて聴き続けて、このボックス盤を堪能する。
『The Complete Live At The Plugged Nickel 1965』には、日本盤、米国盤の2つのバージョンが存在する。後者は本当の完全収録ということで、巷では、圧倒的に米国盤が評価されています。が、日本盤も意外と捨て難い。音質が良いこと、そして、テオ・マセロの編集によるものという特徴があり、マイルスのライブ録音ということは、テオ・マセロの編集の腕の見せ所ということもあって、巷の評価とは裏腹に、僕は日本盤も結構気に入っています。
が、今回は、完全収録、テオ・マセロの編集無しの「素のまま」の『The Complete Live At The Plugged Nickel 1965』を聴き始めました。で、今回は、Disc 1〜3までの「December 22, 1965 - First Set、Second Set、Third Set」。1965年12月22日のライブ・パフォーマンスである。
これがまあ、何度聴いても「驚愕」の一言。凄いジャズがここにあります。遠く昔は、ジャズの発祥と言われるディキシーランド・ジャズの時代から、スイング・ジャズ、ビ・バップ、ハード・バップ、と続いてきた、メインストリーム・ジャズのフォーマットの中で、最大限自由度のある演奏。
このマイルスの「Plugged Nickel」以上の、メインストリーム・ジャズの演奏の中で、自由度の高い演奏は無いのではないか、強く確信させてくれるだけの、相当に自由度の高い、驚愕の演奏が繰り広げられている。
マイルスを筆頭として、自らのインスピレーションとお互いの「あうん」の呼吸、自らのイマージネーションとお互いの「掛け合いとせめぎ合い」を駆使して、最高に自由でクールなメインストリーム・ジャズを表現している。
異様な「テンションの高さ」「演奏の切れ味」「演奏の密度」。ライブ演奏でありながら、全くもって、聴き手を無視して、ミュージシャンサイドだけで、切れに切れまくる。
収録された曲は、ジャズの大スタンダード曲ばかりだが、聴き易さ、判り易さ、親しみ易さ、なんて全く無縁。聴き易く、判り易く、親しみ易い、ジャズの大スタンダード曲の旋律をバラバラに解体し、再構築し、その旋律をベースとしたインプロビゼーションは、全く前例の無い展開。冷徹にジャズを構成する重要な要素だけを我々の前に提示するのみ。シンプルで密度の高い「純粋なジャズ」。それを、マイルスの黄金のクインテットのメンバーが、メンバーだけで楽しむ。
といって、この演奏を、このボックス盤を気安く聴いてはならない。ここには、単純にシンプルに、ジャズを構成する重要な要素だけが詰まっている。聴き易くも、判り易くも、親しみ易くも無い。少なくとも、BGMっぽくは聴き流せないし、ましてや、「ながら」で聴くジャズでは全く無い。
当然、ジャズ者初心者の方々には、全く向かない代物である。しかし、ジャズ者を極めて行くには、何度かこのボックス盤の演奏を聴いては敗退する、を繰り返して、いつかどこかで、このボックス盤の本質の一端を理解する、というプロセスは必須ではある。決して、生半可な気持ちで、このボックス盤に接してはならない。下手をすると「ジャズが嫌いになる」(笑)。
それほど凄い、それほど刺激的な、それほど驚愕的な、最大自由度の高い、ある意味「恐ろしいジャズ」がここにあります。でも、1965年12月22日のライブ・パフォーマンスはまだ、伝統のジャズ演奏の範疇に引っ掛かった内容なので、まだ聴いていて安心感があります。それでも、十二分に刺激的です。
これだから、マイルス・ディヴィスは恐ろしい。これだから、マイルス・ディヴィスは「ジャズの帝王」と呼ばれ、今でも最高に尊敬される「ジャズ・ジャイアント」として君臨しているのだ。
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