フリージャズが聴きたい
秋は一人旅に限る。物寂しい晩秋の季節、一人で見知らぬ田舎を彷徨い歩く。高校時代から大学時代、この晩秋の季節には、決まって一人旅に出た。淋しいんだけれど、その寂しさがなんとなく心地良い。人間って、孤独を強烈に感じる機会が無いと、人との触れ合いの有り難さが見えなくなる。
一人来て 香り懐かし 秋の海
さて、この晩秋の季節から冬の季節にかけて、無償のフリージャズが聴きたくなることがある。フリージャズとは「1960年代以降に発生した、いかなる西洋音楽の理論や様式に従わないといった、一連のジャズの総称」(Wikipediaより)。
フリージャズは「魂の叫び」とか言われるが、僕は、人間の音楽の原風景と思っている。人間にはそれぞれ体内にリズムを持っている(心臓の鼓動があるからね)。そして、そのリズムに合わせて音を奏でる。
一人で演奏している分には良いんだが、多くの人数で演奏するには、合唱するには何か決め事が必要。グレゴリオ聖歌の場合は「モード(旋法)」。基音を決めて、その基音を基に旋律を作りあげていく方法。もっとキッチリと規則を決めて、多くの人数で演奏する決め事が「コード」。
フリージャズって、「いかなる西洋音楽の理論や様式に従わない」って言うが、それであれば単なる雑音。フリージャズにはそれぞれのミュージシャンの流儀で、フリージャズの演奏上、特別な決め事が必ずある。それは、それぞれのミュージシャンの流儀によるので、標準形ってものは無いので判り難いので、気が付かないんだが・・・。
今日は、Archie Shepp(アーチー・シェップ)の『Live At The Pan-African Festival』(写真左)と『Blase』(写真右)を聴く。シェップは、60年代、音楽家としてだけでなく、精力的なアフリカン・アメリカン活動家としてもその名を世間にとどろかせた黒人ジャズ・マン。テナー・サックス奏者。近年では、ビーナスレーベルからアルバムを多々リリースしているが、これらはもうフリージャズの範疇では無い。真っ当なハードバップ的ブロウに終始している。
この2枚のアルバムは、シェップを理解する上で必須の2枚である。この2枚は、Archie Sheppの「2つの顔」を示してくれる。『Blase』は彼のフリーフォームをベースにした、ブルース・サウンドの表現であり、『Live at the Pan-African Festival』は、当時の彼のアフリカ回帰思想に基づくブラック・アフリカ・ルーツサウンドをフリーフォームの基で表現している。
確かに、完璧なフリージャズなので、フリージャズに馴染まない方には、聴くに堪えない騒音だと思う。ですから、絶対に聴いた方が良い、と言いません(笑)。僕も大学時代、初めて耳にした時には、単なる騒音にしか聴こえませんでした(笑)。
でも、よくよく聴いているとなんだか「決め事」があるみたいなんですよね。その「決め事」に則っているということを感じ始めると、フリージャズも「音楽」として楽しむことができます。
この『Live At The Pan-African Festival』と『Blase』の2枚は、比較的、その「決め事」が判りやすく出来ているので、フリージャズ入門には良いアルバムだと思います。
でも、不協和音が苦手な人にはお勧めしません。クラシックの世界でもバルトークなど、不協和音満載の交響曲もあるので、このバルトークやストラビンスキーの交響曲が苦もなく聴ける方は、もしかしたら大丈夫かと思われますが(私がそうでした)、フリージャズを初めて聴こうとする時には、しっかりとその目的を自己確認して、フリージャズを聴いた後、自分を見失わないよう、お願いします(笑)。
くさやの干物、鮒寿司、リヴァロ(チーズ)の様に、強烈な臭さと味覚に癖があって、皆が好きな食べ物では無いのですが、その強烈な臭さと味覚の癖の中に「強烈な美味さ」を感じた者だけが、味わい楽しめる極上の味覚と同様に、フリージャズは、その騒音に近い喧噪の中に「強烈な音の原風景」を感じた者だけが、味わい楽しめる「アウトローな音楽」だと思います。
フリージャズは、無理せず、楽しみたいと思います。今でも、体調の悪い時、精神的に弱っている時には、決して聴かないジャズのジャンルでもあります(笑)。
★ コメント&TBは、全て「松和のマスター」が読んでから公開される仕組みです。表示されるまで少し時間がかかります(本業との兼ね合いで半日〜1日かかる時もあります・・・ごめんなさい)。公開されたくないご意見、ご感想はその旨を添えて送信してください。
« 70年代クラプトンの隠れ名盤 | トップページ | 遅まきながら「追悼・加藤和彦」 »
コメント